地域政党サミット訪問記②(第四回地域政党サミットin小金井市)
1月22日に小金井で開催された「地域政党サミット」レポートの第二弾は、琉球大学の島袋純教授のご講演についてお話させていただきます。
まずはプロフィールから!
島袋純先生
琉球大学の研究者データベースによると・・・
現在の研究課題
•自治基本法及び自治基本条例の総合的理論的実践的研究
キーワード:自治基本条例 , 住民自治 , 自治制度改革
•ガバナンス変容の中の沖縄
キーワード:地域ガバナンス , グローバル化 , 沖縄
•市民的公共性をはぐくむ社会科教育のあり方
キーワード:市民的公共性 , エンパワーメント , 補完性の原理
青山学院大学から早稲田大学に移り、ご専門は行政学。西尾勝先生が青学に来ていたので、熱心に講義を聞いたそうです。沖縄の問題を解決するのは「自治」ではないかと大学3年のころから思っていたというので、先見の明があるというのでしょうか。
「アメリカの民主政治」という本に出会い、そこから自治の重要性を知ったとおしゃいます。
この本は、アメリカの民主政治の本質を説く古典的名著フランスの政治学者トクヴィルが、独立後のアメリカのデモクラシーの実態と展望を探るため、政治制度や成文法律などを吟味、通観し、政治的社会の現状を描写する市民自治の憲法理論。
島袋先生の敬愛する松下恵一先生の本も非常に素晴らしく、国家行政の一部として地方行政があるということは非常におかしいということが書かれています。対等協力の関係というのは、主権者に基づいて作られた政府として地方も国も対等でなければならないというのが主張でした。この、地方と国の対等性については、サミットレポート①でご紹介した、北川氏の主張とも重なります。
地域主義と地方政党の意義について
「沖縄は歴史的に中央のいうことを聞かないということころがある。」と切り出された島袋先生の言葉に、少し胸がどきどきしてきます。
恥ずかしながら私は、数年前に「テンペスト」(池永永一著)を読むまで、日本にとって最も近い「外国」である『琉球王国』について何も意識することがありませんでした。
琉球王国は、今から約570年前(1429)に成立し、約120年前(1879)までの間、約450年間にわたり、日本の南西諸島に存在した王制の国でした。
明治維新により成立した日本政府が、1879年(明治12)軍隊を派遣し首里城から国王尚泰(しょうたい)を追放し沖縄県の設置を宣言するまで存続した琉球王国は、東南アジアや中国、日本の侵略の恐怖に脅かされながら、沖縄紅型や琉球舞踊など独特の素晴らしい文化を花開かせていきました。そうです! つい最近まで沖縄は外国だったのです。
そして、太平洋戦争の中戦地となってしまった沖縄は、強制収容所の中で県政の基礎は始まります。沖縄諮詢会(おきなわしじゅんかい、Okinawa Advisory Council)は、アメリカ軍により招集された住民代表の組織で、琉球列島米国軍政府の諮問機関として発足した、沖縄本島における最初の行政機構です。
沖縄の統治は戦後しばらくはアメリカからの直接支配が続き、諮詢会は沖縄県議会となります。沖縄の県政の始まりの頃を島袋先生が教えてくださいます。
「当時議会にある会派は親米だった。47年になると日本国憲法が発布され、沖縄でも浸透していくのだが、49年ごろからは「日本は生まれ変わった」ということが沖縄にも伝わり、希望が見出されるようになっていくんです。50年になると沖縄群島議会選挙が始まり、沖縄ではその時に日本復帰を望む政党が生まれるようになっていくんですね。」
比嘉秀平、西銘順治などの保守派なども加わった社会大衆党は、アメリカ支配に反対し、憲法のもとに生まれ変わった日本への復帰をうたうようになります。60年以降は社会党、人民党と合流して非常に重要な政党となっていきました。
1955年になると日本では保守合同、左右社会党の再統一がおこり、55年体制ができました。93年まではこの55年体制のもと、利益還元政治が行われたわけですが、沖縄でも55年体制に近い体制ができていったそうです。
「社会党、人民党(共産党系)社大党が一緒に戦うということをやってきた。90年選挙まではずっとそうだった。68年体制と呼ばれた体制だが、この流れの中でも沖縄独自のことが起きる。」と島袋先生は続けます。
共産党が独自候補を立てないということもその一つ。革新共闘体制を長年にわたって築いてゆきました。
「保守系側はそもそもアメリカ軍政にすり寄る政党でしたが、県民のためにならないということがあれば、行政主席の側につかないということもやってきたんです。保守党を割ってでもやってきた。行政主席は軍からの任命首長。60年代になるとキャラウェイという高等弁務官がいろいろな弾圧をおこなうのだが、これに対しても、自治権回復運動を行い、首長を直接選挙で選ぶ運動を展開していったわけです。つまり、沖縄の政党は常に沖縄県民のための政治をやろうとしてきたんですよ。」
沖縄県の政党はやがて、中央政党の支部となっていくが、県民の利益にならなければ、中央政党の言うことを聞かないということは続いたのだそうです。西銘氏が知事になって、利益還元がはびこったが、90年代になり少女強姦事件が起き、沖縄県民が軍をこのままにはできないということが起き始めました。
「94年の社会党の政権交代で、村山首相が沖縄の米軍を容認するという大転換を行うと、沖縄社会党は中央社会党と断絶し、沖縄社会党は独自の道を歩いていくんですね。太田県政と橋本首相がとても仲が良かった時代があるが、自民党本部から県連に住民投票をさせろという圧力がかかったこともありました。県連側は梶山清六などが強く知事を支持するように圧力をかけたが、県連はそれを拒否するんですね。吉本副知事再選の動きがあったときも、中央からの支持を無視して県連は拒否。保守でも革新でも中央のいうことを聞かない、県の利益のために独自のことをやっていくという政党のありようがあった。」島袋先生の言葉はどんどん熱を帯びてきました。
社会大衆党は今はずいぶん縮小してきたが、与党の接着剤として存在意義を証明しているのだそうです。復帰政党、ヒューマニズムという戦後の歩みに大きな価値を置き続けている。琉球民族に基づくアイデンティティというよりも、長い戦後の中で闘い、県民の権利を勝ち取ってきた歴史にこそ誇りを持っているといえるのでしょう。
ヨーロッパにおいては地域主義政党が多く存在します。基本的には地域の中で地域の利益を最大限にするということが目標。地域政党が必ずしも地域の為の利益だけを代表するのではなく、地域からなるヨーロッパというように、結びつきを深めてヨーロッパの発展に寄与していこうということがあります。こうしたことが、日本の地域政党においても可能なのではないでしょうか。
現在の問題点は何か?
政党の中央による党議拘束、国策の地方への強制は可能なのでしょうか?
様々な法改正により、自民党は組織政党と化し、刺客を送り込むというようなことをやり、選挙介入力を強めていきました。若手議員は、党本部のいうことを聞くのか、住民に寄り添うのかの2者択一を迫られ、党本部にすり寄るということを選ぶようになってしまったといいます。
お金では解決できないのが人権侵害の問題です。安全保障のために人権を侵害していいということはあり得ません。憲法では人権は何よりも優先されるべき事項として掲げられています。この人権侵害が、沖縄では「安保」のもとに起きてしまっているという悲しい現実が横たわっています。
2000年の地方分権改革法は、新しい国と地方の係争処理委員会なども設けられましたが、沖縄では残念なことだが機能していないと言わざるを得ません。
地方は地方の独自性を考えて、それを実現できる余地が2000年の地方自治法の改革で登場してきました。日本では議会は議論をしませんね。議論を禁止しています。質問するだけの議会という奇妙な状況に誰も文句を言いません。でも、議会である以上、議論を尽くすということが必要なのではと思います。
島袋先生も「重要なモデルはアメリカの議会。予算編成権を議会は持っている。実際に政策決定を行う議会にまで徹底的になっていけば、今はそれほど多くはないが、そこまで議会改革が進んでいけばいいと思う。政策形成能力のある議員はまだまだ沖縄では育っているとは思えない状況である。」と おっしゃっていました。
公共ということを考えたとき、国益が最上位にあり、地方は下にあるというあり方は、2000年の法改正で否定されています。国益重視ではなく、地域の利益を明らかにし、それを優先することで、国にも利益がもたらされるという考え方が推進されています。地方優先の議員がたくさんいることが、地方自治の確立につながるのではないでしょうか。
最後に
基礎自治体だからこそのきめの細かい政策や、独自の経済政策がもっと出てきてほしいなあと私も思います。それこそが地方自治という政治の魅力なのではと思います。成功した自治体の政策はほかが真似ればいいのです。国も真似ればいいのです。国という大所高所ではないからこそ、住民の幸せのためにやれることがまだまだあるのではと思います。
そして私がそうしたことを一つでも見つけ、形にし、住んでいる人たちが少しでも幸せになり、その幸せがやがて日本に、世界に広がっていくような、そんな幸せの連鎖がつながる政治に、関われたらいいなあと思っています。
レポート 西村恵美