「第一回地域政党サミット in kyoto」講義録概要
北川正恭先生ご講演
◆分権論の歴史
地方分権についてまず歴史から紐解いてみたい。
明治維新のさなか、1877年に著書「分権論」を出版した福沢諭吉は「この国を治めるには二点ある」と述べた。一点はガバメントであり、もう一点はアドミニストレーションである。自由民権運動から政党の動きが活発になり、その後大正デモクラシー運動が行われた。ただし、その時代は非常に外交的に慌ただしい時代に突入していった。戦争というのは集権体制から生まれてくるので、日清・日露戦争、あるいは第一次世界大戦、朝鮮動乱が起こり、戦争をするには都度国民の声を聞くという風潮も薄れる中で、デモクラシー伴う分権論の議論は立ち消えてしまった。
その後、長らく分権論にはスポットが当たらなかったが、高度経済成長期に工業国家として国の成長戦略を協力に進める上で、三重県四日市市での公害問題が発生するなど、高度経済成長の歪が徐々に現れてきた。それを皮切りにその他環境・福祉分野などで問題を対処するべきであると、地方自治体から革新的とも言えるような流れが起こった。その中で神奈川県から分権論を訴える知事が誕生した。地方から情報公開条例が発令され、その後国でも情報公開法が決まった。
その後、田中角栄氏の逮捕をはじめ国会議員の政治汚職問題が頻発したため、「国からも現状の政治を変えていく必要がある」と1995年に国会議員らが政治改革大綱(政治資金規正法、公職選挙法)で大改革がなされ、同時に地方分権推進法も出された。
◆三重県知事時代
ドミナントロジックを打ち破ることとの闘いから始まった。国から様々な条例に対する通知のなかで、官僚の事務次官から「命によって通知する」との文言があり、事務次官が選挙で選ばれた自治体の長に対し「命によって・・・」とはいかなることかと問いただしたこともある。本来であれば違和感のあることでも、お国が上だという先入観で従ってしまうことが地方では長年当たり前になっていた。それで本当に民主主義国家なのだろうか。これでは、地方に執行あって権限なしと言わざるを得ない。ここで国と議論する際に地方分権推進法が施行されていたことが効いた。地方自治体が自立して政治を行う姿勢が私の時代的な使命だったと言える。
また、当時どこの自治体でもまかり通っていた官官接待についても見直しをかけた。三重県の官官接待が事件化したことにより、問題の公化を阻む職員と喧々諤々の議論の末ようやく理解を得て、問題を起こした職員への刑罰、これまでの官官接待費の返済(11億6,000万円を管理職手当カットにより返済)、及び改革が決まった。それが全国に波及し、その後官官接待は全国の自治体で原則ゼロになった。集権は辞めて分権にしていこうという流れも強まった。
◆今後の地方分権
2015年は、この20年間の先人たちの努力によって進められた分権時代から「地方創生」として場面展開するときだ。これまでの権限を分けてくださいといった消極的姿勢ではなく、積極的に自ら生み出していく時代に突入したことを地方議員は明確に理解すべきである。そして、自分たちこそが地方を変えていくという決意が肝要。時代が、そして世論が、地方議会改革を求めているからこそ、その責務を背負って活動してもらいたい。主権者が改革を願っているからこそ、現在の厳しい議会バッシングが起こっているのだと捉えるべき。
国会議員が変わり、地方公務員が変わり、そしてそこから20年遅れで地方議会が変わるときが訪れている。地方議会に対する多くの不要論を地方議員の努力によって、決して議会基本条例などの形式的なもので終わるのではなく実行してもらいたい。国が変えてくれることを待っていては地方から時代に沿ったまちづくりは実現できない。地方議会は本来追認議会ではない。その危機感のない地方議会が非常に多いことは寂しい。また、議員の定数削減や報酬削減など、表面的でへりくだるばかりの方向性ではなく、本来必要な報酬、政務活動費の在り方など、正しい議会活動の為に本質的な議論を進めることが望ましい。
何でも国に追随し、何でも追認する、そういった現状に対して、これからの地方の在り方に問題提起をしていく地域政党サミットの動きに期待をしている。
行政プロモーション~おしい!広島県&もうひとつの京都~
神戸志民党 党首 樫野 孝人
◆おしい!広島県
観光キャンペーン「おしい!広島県」のホームページアクセス数は、うどん県の17万件/2日間を超え、半日で40万件を記録し、大きな話題となりました。2012ヤフー動画ランキングでも総合4位、エンタメ部門1位を受賞、短編映像の観光庁長官賞をいただきました。 パブリシティ効果は広告換算すると100億円を突破しました。瞬発力のある映像で広島県に振り向いてもらうことを狙いとし、その注目度を利用し、レモンや牡蠣、タコといった地元産品のPRを展開していきました。
◆もうひとつの京都
観光ブランドの王者・京都府では瞬発力より継続力、リピート力を保つことを狙いとし、葉加瀬太郎氏を起用した音楽軸での観光キャンペーンを展開しました。
楽曲名の公募に始まり、中学・高校の吹奏楽部や海上自衛隊舞鶴音楽隊へ楽譜を提供し、定期演奏してもらいました。さらに、この「組曲もうひとつの京都」は葉加瀬太郎氏の25周年ベストアルバムにも収録され、2015ライブツアーで演奏されていくことになります。今後、京都府のいくつかの市町がこの楽曲を使用したスピンオフ企画を進めていく予定です。この楽曲を使用した観光映像も観光庁長官賞を受賞しました。
◆伝える広報から伝わる広報へ
戦略的広報は3つに分けられます。マーケティング・コミュニケーションは一つ一つの事業を県民(ユーザー)に伝え、事業の成果を最大化させていく広報です。コーポレート・コミュニケーションは、県政理解を促進し、安心と信頼を醸成していく広報です。そして、リスク・コミュニケーションは不祥事や対立、失敗の説明責任を果たし、ピンチをリカバーし、出来ればピンチをチャンスに変える広報です。
今後、地方自治体が戦略的広報を推進するには、
- 1、 費用対効果を明確にしていく
- 2、 ターゲットを明確にする
- 3、 500分の1に選ばれる情報になるにはお化粧してもダメ。
価値ある行政サービスを提供するのみ。 - 4、 行政マンだけでやりすぎない。かといって広告代理店に丸投げしない。
- 5、 自治体組織の中にマーケティングの専門家が必要。
の5つが重要なポイントになると思います。
京都党代表 京都市議会議員 村山祥栄 講演
◆なぜ地域政党なのか?なぜ地方分権か?
私は筋金入りの地域政党論者でして、何せ8年前選挙のポスターに「地域政党構想」なる文言が刷り込まれている始末でして(当時地域政党は日本に皆無)、並々ならぬ思い入れがある。
そもそも地域政党ってなに?と言われても当然で、知らなくて当然なのです。もともと、なかったモノなのですから。
ではなぜ、地域政党なのか?なぜ地方分権か?
まず、地方分権の背景にあるのは次の3点
- ① 人口争奪戦時代・都市間競争時代へ
- ② 金の切れ目の地方分権
- ③ 時代の趨勢
①はいうまでもありません。②もご存じのとおり、中央による維持装置が崩壊してきた。
毎年地方へ配分する予算が7兆円も不足(半分臨時財政債)している。まさに地方切捨ての方便として地方分権が言われてきた。
③は意外と知られていませんが、実は人口増加期というのは社会構造も青天井で、政治も上へ上へ伸びる為、中央集権・ピラミッド型になり易い。明治時代や戦後がそうです。
逆に、人口減少期は下からの誘導で多極沈殿(リゾーム型)へなり易く、鎌倉中期の守護地頭の台頭、江戸後期の諸藩の台頭がその象徴的な時代だったと言えます。
つまり地方分権からは逃げられない。故にそれに対応する仕組みが必要だということです。
◆地方分権は進んでいるのか?
さて、では問題です。
本当に地方分権は進んでいるのでしょうか?答えは否です。進んでいるのは行政府だけです。三権分立のうち行政は分権しましたが、立法は分権しましたか?そう、全くしていないのです。立法府を分権するには、地方から声を上げるしかない。正確には地方議会の議会人が声を挙げねば始まらないわけです。国政政党の下請けに成り下がらず、地方議員の発言権を強化し、分権に耐えうる成熟した地方議会を作り、地方議会が自立しなければ成しえない。
それが出来るのが地域政党なわけです。同時に、分権社会を乗り越えるには、地方独自の政策が必要で、住民自身が自立しなければならない。中央集権型政党に対して地方自立型政党、これこそが地域政党です。世界的に見れば、イタリア北部同盟、カナダのケベック連合、スコットランド国民党、いずれも地域の独立、または自立を掲げて発足した地域政党です。日本における地域政党でいえば本土復帰前から沖縄独立を掲げて誕生した沖縄社会大衆党などなどです。地方が自立するためにはその仕組み作りが必要です。
その受け皿こそが地域政党なのです。我々は京都から日本の地方のモデルを作ろうという思いで地域政党を作りました。地域政党のモデルを作ろうとこの5年活動してきました。
地域政党の歴史はこれから始まります。
まさに我々の道が日本の地方行政の道になる。そう信じて一緒に闘って参りましょう。